はじめに ─ 「みんながやっている」の設計者
私たちは日常の多くの判断を、他者の行動に委ねています。
行列ができている店を選び、レビューが高い商品を信じ、
フォロワーが多い人の意見を信用します。
こうした心理を行動経済学では「社会的証明」と呼びます。
そして今、この人間的な傾向を最も巧みに再現しているのがAIです。
AIは、膨大なデータをもとに「みんなの行動」を数値化し、それを再構成して提示することができます。
人が共感し、安心し、同調する構造そのものを模倣できるのです。
ほんの数年前には人力で行っていたであろう「サクラ」は今や数クリックで無限に生み出せるのです。
しかし、その一方で、人間の本能は全く変わっていません。
1章. 「みんなやってます」という安心の設計
社会的証明の根底には、「他者の判断を信じる方が安全だ」という
人間の進化的な本能があります。
危険を避け、生き延びるために、
人は群れの行動を参照するように進化しました。
AIはこの構造を忠実に模倣します。
たとえば、AIによる商品推薦では、
「多くの人がこの商品を購入しています」という表示が
購買率を大きく押し上げます。
また、SNSのアルゴリズムは「他の人がいいねした投稿」を
優先的に見せることで、
人気のある意見をさらに増幅させます。
AIは、何が「共感されているか」を瞬時に把握し、
それを再演出する存在になりました。
ここで強く働くのがアンカリング効果です。
最初に提示された数字や評価が、人間の基準を固定してしまう現象です。
五つ星中の評価が「4.8」と表示されるだけで、
私たちはその情報を起点として他の要素を判断します。
星評価であればまだ合理的なのですが、恐ろしいことに、まったく無意味な数値であってもアンカリング効果は機能します。例えば、
今日は、10月26日です。
さて、クイズです。
理性では「月が人に恋を思わせるわけではない」と否定しながら、
感情では涙がそれを裏切るという構造を持つ月を詠んだ恋の歌で、
「かこち顔なる」という、涙を擬人化した表現が特徴的な西行法師の歌は
百人一首で第何番でしょう?
ここで、10と26ははっきり言って何の関係もありません。
何の関係もないのですが、知らないと引っかかってしまいます。
AIはこの初期値を動的に制御し、人が「安心できる位置」に基準を置くよう設計します。
つまり、安心という感情の起点すら、AIがつくり出しているのです。
この時、AIは実際の群衆心理をそのまま映しているのではなく、
「反応を増やすための社会的証明」を最適化して生成できます。
つまり、見せかけの多数派を作り出す設計が行われているのです。
私たちが見ているみんなは、必ずしも本物の群衆ではありません。
これは、みんなのみならず「成功者」にも言えることです。
2章. AIが生み出す「擬似的な群衆」
AIはデータの中から、
共通の行動パターンを抽出して群れのモデルを作ります。
そして、そのモデルを基にこうすれば人は動くという最適化を行います。
これが、擬似的な社会的証明の源です。
たとえば、動画サイトでは「視聴回数」や「いいね数」が
リアルタイムで変動します。
この数字自体もAIが演算の対象となり、
アルゴリズムによって最も反応が増える方向に動的に調整されます。
結果として、私たちは他人の人気に見せかけられた数字を見て、
安心や信頼を感じるのです。
AIの本質は、過去の膨大なデータの模倣、再現であり、共感も例外ではありません。
そのため、群衆の存在すら演出可能な変数になります。
多くの人が関心を示しているように見せることで、実際に関心を持たせることができます。これは社会的証明の再帰的なループです。
AIは人が人を信じる構造そのものを再生産しているのです。
3章. 模倣の連鎖と、個の消失
AIによる社会的証明の模倣が進むと、
人々は他者の反応を手がかりにしか判断できなくなります。
それは、安心のために自分の感覚を後回しにする行動です。
「みんながいいと言っているから間違いない」
という思考が繰り返されるうちに、
個人の基準は静かに溶けていきます。
さらに問題なのは、AIが「模倣の方向性」まで設計してしまうことです。
AIはデータから人気傾向を抽出し、
そこに近いコンテンツを優先的に提示します。
つまり、似たものが増え、異質なものが排除される構造です。
この仕組みが続けば、社会的証明の多様性は失われ、
文化や意見の分布は一様化していきます。
こうして私たちは、
「安心」を求めるあまりみんなの中にいることを目的にしてしまいます。
しかし、群れの外側に飛び出す存在もまた、社会には不可欠です。
危険を承知で最初に海へ飛び込むファーストペンギン。
その勇気がなければ、新しい安全圏は広がりません。
AIがつくる均質な社会的証明の中で、人間の本質的な価値は、
最初に動く少数者にこそ残っているのです。
4章. 模倣を超える共感を取り戻す
AIが作る社会的証明の中でも、
私たちが守るべきは「自分が感じた確かさ」です。
他人の反応よりも、自分の違和感を信じる感性。
それを取り戻さなければ、
いつの間にかAIの演出した実体のないみんなの中に溶けてしまいます。
非効率で、不人気で、一見誰も賛同していない選択。
そこにこそ、まだ人間らしい決断の余地があります。
行動経済学が明らかにしたように、
人は非合理であり、少数派であるときにこそ独自の価値を生みます。
AIが最適化した「安心の群れ」の中で、あえて立ち止まり、疑問を持つこと。
それが、模倣の連鎖を断ち切る第一歩です。
おわりに ─ 本当の「みんな」はどこにいるのか
AIは、社会的証明を再現するだけでなく、
その証明そのものを作り出す存在になりました。
しかし、「みんなやってます」という言葉の裏に、
本当にみんながいるとは限りません。
私たちは、AIが描く集合的な幻想の中で、
安心と同調を手に入れる代わりに、
思考の自由を少しずつ手放しているのです。
ただ、問い直す力はまだ人間の側にあります。
自分が何に共感し、何を信じるのかを意識的に選ぶこと。
意識でさえも、AIのおすすめに左右されることもありますが、それでも信じること。
それが、AIの時代においても、
人間らしさを保ち続けるための最も確かな方法といえそうです。
*クイズの答え (86番)
西行法師 『千載集』恋・926
嘆けとて 月やはものを 思はする
かこち顔なる わが涙かな

