はじめに

先日、私事ですが大学の恩師と会う機会がありました。
大学にもAIの波が押し寄せているか伺ったところ、「それっぽいレポートが本当に増えた」とのこと。では、「それっぽい」ってどういうことでしょうね、と議論になりました。

その中で出た結論として、情報は正しく、構成も整っていて、論理の飛躍もないのに、結局文章を読んでいて「内容は理解できるのに、なぜか何も残らない」文章ではないか、というものに至りました。
議論中にはうまく言語化できませんでしたが、本来文章を書くのは、自身の考えを整理したり、立場を理解してもらうためという目的があって書くものです。
対立する仮説の引用含め、自身の考えを補強するために情報を引用し、構成を整え、論理をまとめていくのが本来の文章です。最終的なゴールである「自身の立場を決定し、論じる」という点が欠落していると、人間の熱が欠けた文章になり、違和感が生じるのではないでしょうか。

もっとも、この違和感の正体は、文章の質が落ちたからではありません。むしろ逆で、文章が「よくできすぎている」ことに原因があります。背景には、生成AIの普及があります。AIが書いた文章は、破綻せず、網羅的で、丁寧になりやすいです。しかし同時に、判断の痕跡が消えやすいという特徴も持っています。

本来、文章とは、書き手がどこで迷い、何を捨て、どこで線を引いたかが滲み出るものです。その過程が見えるからこそ、読み手は納得したり、反発したり、自分の立場を考え直したりします。ところがAIの文章では、その過程がうまく隠されてしまいます。

本稿では、この「文章のAIらしさ」を、表面的な言い回しや語彙ではなく、思考の構造という観点から整理します。そして、AIを使いながらも、文章から判断や責任を失わないためには、何を意識すべきかを考えていきます。

AIを否定する話ではありません。
むしろ、どう使えば文章が痩せずに済むのか。その境界線を明確にするための整理です。

以下では、AIらしさがどこから生まれるのか、なぜ違和感になるのか、そして人間側が引き受けるべき役割は何かを、順に見ていきます。

AIっぽい文章は確かにありますが、AIっぽさを見抜くには我々がAIっぽさを理解しないといけません。

第1章    AIらしさは語尾や語彙ではなく、思考の構造に現れる

文章を読んで「これはAIっぽい」と感じるとき、多くの人は無意識のうちに、語尾の整い方や説明の丁寧さに注目しています。しかし実際には、AIらしさの本体はそこにはありません。
より深いところ、思考の組み立て方そのものにあります。

AIの文章は、原則として「安全に正しいこと」を目指します。極端な主張を避け、反論されそうな部分にはあらかじめ逃げ道を用意し、誰が読んでも大きな違和感を持たない形に整えられます。その結果、文章は破綻しませんが、同時に「踏み込まない」ものになります。

人間が文章を書くときには、意識していなくても必ず選択が発生しています。本当はAとBで迷ったが、今回はAを採った。Bの方が安全だと分かっていたが、あえて切った。そうした判断の履歴が、文章の行間に滲みます。
一方、AIの文章では、その「迷い」や「切り捨て」が構造上ほぼ消えます。最初から平均的な結論に収束するためです。

第2章    列挙はできるが、「なぜそれを選んだか」が書かれない

AIの文章を読み返すと、ある特徴に気づきます。それは、説明の多くが「列挙」で構成されている点です。

例えば、

・ポイントは3つあります
・一つ目は〇〇です
・二つ目は△△です

といった構造は非常に得意です。しかし、その一方で、

・なぜこの3つなのか
・なぜこの順番なのか
・なぜ他の候補を外したのか

といった説明は、ほとんど書かれません。

人間の文章には、「選ばれなかったもの」の影が残ります。
この視点もあり得たが、今回は使わなかった。この言い方も考えたが、やめた。そうした判断の痕跡があるからこそ、文章に温度が生まれます。

AIはその影を消します。
なぜなら、AIにとっては「選ばなかった理由」を語る必要がないからです。評価されるのは、網羅性と一貫性であり、葛藤ではありません。

結果として、AIの文章は「正解集」にはなりますが、「思考の記録」にはなりません。読む側は理解はできても、筆者の思考を追体験することができず、どこか空虚さを感じます。

第3章    立場を持たない文章は、責任も持たない

もう一つ、AIらしさを強く感じさせる要因があります。それは、立場を持たないことです。

AIの文章は、基本的に中立です。A説とB説を並べ、それぞれのメリット・デメリットを説明し、「状況に応じて判断が必要です」と締めくくられることが多くあります。これは情報整理としては優秀ですが、読み手の判断を前に進める力は弱くなります。

人間の文章では、本来こうした場面で「だから私はこう考える」という一文が入ります。その一文が、文章全体に責任を与えます。
たとえその判断が後から間違っていたとしても、「ここでこう割り切った」という事実自体が、文章の価値になります。

AIはこの責任を引き受けません。正確には、引き受けないように設計されています。

その結果、

・読み終わっても、何をすればいいか分からない
・判断材料は揃っているのに、決断できない
・「で、結局どうするの?」という感覚が残る

という状態が生まれます。

これは文章としての失敗というより、用途のミスマッチです。AIは判断の材料を並べる道具であって、判断そのものを引き受ける存在ではありません。

第4章    AIらしさを排除するとは、「人間側が責任を持つ」こと

文章のAIらしさを排除する方法は、意外と単純です。ただし、それは楽な作業ではありません。

必要なのは、

・捨てた選択肢を書くこと
・迷った理由をあえて残すこと
・安全ではない割り切りを明示すること
・「私はここで線を引いた」と言い切ること
です。論文の本質でもありますね。

これらは、AIが自動的にやってくれることではありません。人間側が「ここは自分が引き受ける」と決めて初めて、文章に組み込めます。

AIを使って文章を書くとは、すべてを任せることではありません。
むしろ、どこまでAIに任せ、どこからを自分が引き受けるかを決める行為です。

AIに下書きをさせ、論点を整理させ、法令や事実関係を洗い出させる。そこまではAIが得意です。しかし最後に、

・どの結論を採るのか
・どのリスクを受け入れるのか
・何を捨てるのか

を決めるのは、人間の仕事です。

おわりに

文章のAIらしさとは、
「整っているが、意思がない」
「正しいが、責任がない」
という思考構造の特徴です。

それ自体は欠点ではありません。
ただし、文章に判断や設計思想を求める場面では、そのまま使うと違和感になります。

AIは地図を描くことができます。
しかし、どの道を選ぶかを決めることはできません。

文章を書くという行為は、情報を並べることではなく、どこで線を引くかを示すことです。その線を引く役割だけは、今のところ人間にしか担えません。

AIを使うとは、考えることを放棄することではなく、考える場所をよりはっきりさせることなのだと思います。