CDLE加入から半年が経過し、自身の考えを発信したものをお読みいただけていることを大変うれしく思います。これからも私らしい視点で可能な限り発信していきますので、よろしくお願いします。

はじめに

物事が正確になることは、通常、改善であると見なされます。計算の間違いが減り、境界線が明確になり、曖昧さが排除される。それらはシステムの効率を高め、摩擦を減らすための正攻法だからです。

しかし、私は少なくとも1つ反例が思い浮かびます。
サッカーという競技におけるVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の導入です。
私もサッカーを好きで観戦するのですが、VAR導入前後で、明らかにサッカーが不快に、つまらなくなったと感じます。しかも恥ずかしながら、当初自分自身はVARの導入で不快感が減ると考えていたのにも関わらず、です。
野球におけるビデオ判定やテニスにおけるホークアイ(球がアウトでないかを見極める技術)ではこのような話を私は伺ったことがありません。

n=1のきわめて主観的な話ですが、私にとっては奇妙な問いでした。判定の精度が本来なら高まり、不合理が減少するはずなのに、なぜ不満が増大するのでしょうか。
これは単なる技術的な過渡期の問題ではなく、人間の認知システムと、テクノロジーが提示する「正解」との間に深い乖離があることを示唆していると考えます。

本稿では、正確な判定がかえって期待値のコントロールを難しくした構造について、設計と認知の観点から掘り下げていきます。

1. 誤差という名のバッファの消失

かつて、審判の判定には常に誤審の可能性が含まれていました。それは不完全な人間の目による判断であり、物理的な限界に基づいたものでした。私たちは無意識のうちに、その不完全さをシステムの一部として受け入れていたのでしょう。

この誤差は、今振り返ると実は精神的なバッファとして機能していました。審判も人間だから間違えるという前提があることで、納得がいかない判定に対しても、諦めや許容という形で感情を処理することができたのです。
いわば、システムの不備を「人間の限界」という理由で外部化できていた状態です。

しかし、VARの導入によって、判定は一見ファクトへと変質しました。数センチメートルのオフサイドを線で引き、静止画で確認する作業は、判定から解釈の余地を中途半端に奪い、純粋な計測へと置き換えました。

ここで問題になるのは、計測に誤差がなくなったとき、人間の側が抱く期待値と、実際に誤差が生じてしまうことです。
ピッチの選手も監督もある種正直で、「やられたな」という振る舞いと、「今のはおかしい」と抗議する振る舞いは別物になります。
オフサイドは待ち伏せを禁止する反則なのですが、数センチでも攻撃側の選手のプレー可能な部位がゴール側に出ていると反則となります。誰も気づかず、プレーしている選手たちも受け入れ可能であった「見えない反則」のファクトが、テクノロジーの形で浮き彫りになっているのです。
ただし、オフサイドの線を引く瞬間は直前の選手からパスが出た時点であり、直前の選手のプレーがパスであるかどうかという解釈と、プレー可能な部位の解釈はまた別に存在します。
...嫌な予感がしてきた方は慧眼です。ファクトそのもので反則を適用するだけでも興ざめな場面があるのですが、ファクトに対する解釈が存在するのです。

2. 身体感覚とデジタル数値の解離

サッカーは、身体の連続的な動きの中で行われるスポーツです。選手や観客は、その場の流れや勢い、接触の強度を身体感覚として共有しています。一方で、ビデオ判定が提示するのは、細分化された静止画やスローモーションという、現実とは切り離された情報の断片です。

スローモーションで再生される接触シーンは、実際よりも故意性が高く見えたり、衝撃が大きく見えたりする認知の歪みを引き起こします。現場で感じていた「これくらいはよくある接触だ」という身体的な納得感と、画面上で精査された「規定通りの反則」という数値的な正解が、ぶつかり合ってしまうのです。
そして、スローで流されると、有利になる側のサポーターは声を荒げ雰囲気を作る一方、繰り返し同じシーンを巻き戻してみるので、どうしても判定が覆りやすいといえます。

この解離は、脳に過剰な負荷を与えます。自分の感覚では白だと思っているものが、論理的な証拠によって黒だと突きつけられるとき、人は納得するのではなく、システムに対する不信感を募らせます。
テクノロジーが導き出した正解が、人間の生理的な直感から遠ざかれば遠ざかるほど、私たちはその正解を「疎外されたもの」として拒絶するようになります。

しかし、ここにも落とし穴があります。VARという形でビデオ判定されるものを、クラブチームは主体的に選択することはできないのです。ほかのスポーツでいうところの「チャレンジ」ができないのです。
もともとVAR自体が「はっきりとした明らかな間違いである事象」を訂正するためのものとされており、ある国際主審の方は「10人が見れば9人が納得するレベルのもの」と評していました。

...ここまでくればもうお分かりですね。「はっきりとした明白な間違い」の規定さえも、審判の方の両肩に委ねられてしまっているのです。

3. 責任の所在が霧散する構造

従来のシステムでは、判定の責任はピッチ上の主審という個人に集約されていました。誰が決めたかが明確であれば、不満の矛先も定まり、試合後の議論もその個人の能力や判断に帰結させることができました。その仕組みにも当然個人の責任が重いという欠点はありました。

ところが、VARが介在することで、意思決定のプロセスは多層化し、ブラックボックス化しました。ピッチ上の審判と、別室にいるビデオ担当審判。両者の間で行われる通信や、モニターを確認する際の間は、意思決定の責任を分散させます。

責任が分散されると、エラーが起きた際や判断が遅れた際の「納得のいく説明」が困難になります。誰が、どの情報を根拠に、なぜその結論に至ったのか。そのプロセスが見えにくくなることで、関係者は「システム全体」という正体の見えない壁に対してストレスを感じるようになります。
例えば、特定の接触に対して、主審は笛を吹かなかったとしましょう。下記のようなやり取りが想定されます。

VAR「〇番と〇番のコンタクトに対してどのような見解ですか?」
主審「コンタクトがあったことは把握していますが、反則に至る強度ではなかったと認識しています」


一見よさそうです。しかし、VARが見た映像では、選手のスパイク部分がヒットする危険な映像が確認できました。そうなると、選手の退場に関わってくるので、足裏での危険なプレーを確認するためにVARがリコメンドと呼ばれる映像確認を推奨することになります。
ただし、前章で記載した通り、スローで危険なものを見ると当然のように危険に見えます。リアルスピードで観測したものをスローで繰り返し見るのは人間の認知に合致していません。

これは組織設計における失敗の典型的なパターンです。権限と責任の所在を曖昧にしたまま、確認工程(チェック機能)だけを増やした結果、全体のパフォーマンスが低下し、関わる人間の疲弊だけが蓄積していく構造に陥っているのです。
登場人物に悪人はおらず、ただ審判というスケープゴートがいるのみです。

4. 期待値コントロールの崩壊

もっとも深刻な影響は、人々の期待値がコントロール不能になったことです。
VARは当初、誰もが納得する明らかな間違いを正すために導入されました。しかし、一度「正しい判定ができるツール」が手に入ると、人間はあらゆるグレーゾーンに対してそのツールの適用を求めるようになります。

「あのアウトボールは確認しないのか」「さっきのファウルは流したのに、なぜこれは見るのか」といった、適用基準に対する新たな不満が生まれます。
100点満点の正解を出す能力があることを見せてしまうと、99点の出来であっても、欠けた1点に注目が集まるようになります。これは、最初から70点の精度しか期待されていなかった時代よりも、心理的なコストが高くつく状態です。

もう一つ、「時間」という膨大なコストが発生します。
正確さを追求すればするほど、判定を待つ時間は長くなり、試合の熱狂は分断されます。競技の魅力であった連続性が、正確性という大義名分のもとに切り売りされているのが現状です。私たちは、正解を得るために、それ以上に大切な「納得感」や「没入感」という資源を消費しているのかもしれません。
重要な判定は難解で難しく、審判の方も尽力なさるものの、90分の試合で5分待たされるのはどうしても長いのです。

私は現地観戦で最高に興奮したゴールが取り消されたことに心底萎えて以来ずっと、ゴールネットが揺れた瞬間にもう安易に喜べなくなりました。
キックオフされる瞬間にようやく安堵できますね。

そして、それが楽しいかというと、楽しくないわけです。冷めたピザを食べるような感覚ですね。


おわりに

テクノロジーが提供する正確さは、本来、人間を助けるためのものであるはずです。しかし、サッカーの判定を巡る混乱は、人間の感情や認知の仕組みを無視した設計が、いかに現場を疲弊させるかを物語っています。

私たちが求めていたのは、機械的な正解そのものではなく、その正解によってもたらされるはずの「公平な納得感」だったはずです。しかし、納得感とは情報の精度だけで決まるものではありません。判断のスピード、身体感覚との一致、そして責任の所在の明確さ。それらが組み合わさって初めて、人間はシステムを受け入れることができます。

正確すぎる判定が、かえって人間を不幸にする。この期待値コントロールという逆説的な教訓は、スポーツの世界だけでなく、あらゆる自動化や効率化が進む現代社会において、私たちが向き合わなければならない課題です。