Happy New Year!
1級FP技能士のアシまるくんです。
本年もよろしくお願いいたします。

第1章『ワシには分からんアホじゃけん』

時をさかのぼること20年、2005年末。いまやバラエティ番組を席巻するお笑いコンビ"千鳥"も、当時はまだ若き挑戦者。寒空の下で行われたM-1グランプリ敗者復活戦を制して、ファイナリスト最後の一枠を勝ち取った彼らが決勝の舞台で披露したネタは"幕末ごっこ"。このネタ中に登場するキャラクター"太松"が繰り出すキーフレーズこそが"ワシには分からんアホじゃけん"です。 

いまや情報・意見・批判が溢れる大SNS時代。そして、我々の知識の密度をさらにいっそう引き上げることとなる大AI時代こそ、この"ワシには分からんアホじゃけん"の精神が重要になるのではないか、ということで今回は考えていこうと思います。 

第2章『専門外のコメンテーターたちへ』 

この"ワシには分からんアホじゃけん"は一見して、ただの思考放棄・無責任のようにも受け取れますし、元ネタにもいまから考察するような大層な意味はきっとないとは思いますが、この言葉から2つの味わい方を感じます。

1つは批判に関する謙虚さ、もう1つは学びに関する謙虚さです。

まずは、批判に関する謙虚さについて考えます。人は他者の努力を過小評価しがちで、自分の努力を過大評価しがちです。こと他人の専門分野に関しては、"このくらいなら自分にもできそうじゃないか"とついつい思ってしまうといった心当たりはありませんか?

芸術・芸能の分野だと特に顕著な気がします。趣味で音楽や絵画を楽しむアマチュアが、なまじ長い年月をかけて本格的に趣味に取り組んでいるものだから、ついつい有識者気取りでプロの演奏や作品に口を出したくなるなんていうのはよく聞く話です。高額の絵画や達筆すぎる書道を見て、"なんでこんなのが高いんだ、こんなのでよければ自分でもできるわい"なんて思ったことは人生で一度くらいはありませんか?(*1)

最近話題になっていると感じるのは、M-1グランプリを始めとするお笑い賞レースですかね。自分にハマらなかったお笑いコンビが優勝したり、自分の評価と審査員の評価に差が大きかったりすると、批判をしてしまう素人(*2)、それにプロの芸人が"素人は黙っとけ"という趣旨の発信をする、そんな応酬がよく見られた気がします。 自分には分からないものが評価されているならば、その良さが"ワシには分からんアホじゃけん"と流すことで、少し冷静さを取り戻すことができるような気がします。批判するのは批判される覚悟を持つものだけ。特に、SNSにAIと大情報過多の時代。気に入らない情報も多く流れるでしょう。"ワシには分からんアホじゃけん"をスルースキルの合言葉として使ってはどうでしょうか? 

(*1)スポーツにヤジを飛ばしたり、芸能人に"理想のあり方"を説く謎の人物たちも、広義の意味では同類ですね。
(*2)並々ならぬ努力をし、かつ、運に恵まれて、上を目指す大変さを考えると、人を引きずり下ろしたくなる心理は理解できます。それが、自分が気に入らない相手であればなおさら。 


第3章『無知の知を上品に使いましょう』

次に、学びに対する謙虚さです。 私はよく、"知らないことに問題はないが、知ろうとしないことに大いに問題がある"(*3)と言います。これもよくよく考えると、ソクラテスが説いた"無知の知"に通ずる考えであると感じます。"無知の知"とは、自分がものを知らないことを知っている人こそ賢い、という考えです。私は、高校3年のときの数学教師が言っていたことから、この言葉を知りました。

大事なのは、分からないことが分かっているから偉いとか、賢いとか、そういう比較としての言葉ではなく、"自分が知らない・分からないことを理解したうえで、謙虚に学び続ける姿勢"そのものです。若干の愚痴を含みますが、安易に"無知の知"と言いたがる方ほど、この言葉を偉いだの賢いだのにつなげる他者比較の言葉として使っている感覚があります。他者との比較なんてどうでもよくて、自分自身が謙虚に学び続ける姿勢こそが肝要です。
 
現代版"無知の知"は"ワシには分からんアホじゃけん"ではないでしょうか?いまはアホで結構、そこから未来を見据えて、謙虚に学び続ける姿勢があれば、我々も混迷の時代を切り拓く令和版幕末志士になれるのではないでしょうか。 

(*3)自分は知らないことは問題しない、と強く信じて生きてきましたが、いい年をした大人に"割り算ができない"、"琵琶湖が滋賀県にあることを知らない"と言われて、さすがにムッとしてしまったので、"程度の問題なんだな"と痛感しました。そして、"若いうちは周りに恵まれていたんだな"と実感しました。 


第4章『令和の時代もアンキパン』

スマートフォンの普及により、圧倒的に情報へのアクセスが容易となりました。AIの普及がさらに、情報アクセスの容易さをもう1段階、もしかしたら数段飛ばしで引き上げました。情報だけではありません。数学の問題を写真にとって送ると解法を示してくれるアプリや精度の高い翻訳機能など、もう勉強しなくてよくない?と思ってしまうほど、指先1つで解決できることが増えました。しかし、本当に人は暗記や勉強から解放されたのでしょうか。

まず、お伝えしたいのは、本当に専門性の高い知識や実務で必要な知識は簡単にアクセスできません。そして、それらの知識にアクセスするためには、その前提となる知識、便利なAIくんが得意げに提示してくれるような知識・技能が人に備わっていなければ、その人が高度な知識にアクセスすることは不可能でしょう。

次に、お伝えしたいのは、いわゆるAI信者(=AIを言い訳に努力を怠る者)に限って、AIやスマートツールを使うスキルが全く備わっておらず、使いこなせない。使いこなせないだけならまだしも、誤った使い方をしてむしろ負の結果を生む、ということにつながりかねません。それだけスマートツールは強力です。

最後に、暗記の重要度はたしかに下がるでしょう。しかし、暗記が不要になるとは到底思えません。時代はさらに複雑・混迷に進んでいきます。我々が困難にぶつかったときに、考え抜き、解決する力は確かな知識と経験を礎に養われます。確かに、覚えることは減りました。多少曖昧に覚えていても、調べればすぐ思い出せるのはとてもいいことです。

こう考えられないでしょうか?
"暗記が不要になったのではない、暗記が容易になった"と。

簡単に知識にアクセスできるようになった
⇒何度も知識が反芻できるようになった
⇒だから、知識が定着しやすい!

この3stepです。スマートツールが外部メモリの役割を果たしてくれるのもとても便利ですね。謙虚な姿勢を忘れずに、文明の利器とともにさらなる知識を蓄えたいですね。