はじめに
私たちが手に入れた身体と脳の設計図は、何万年もの間、更新されないまま運用され続けています。かつて広大な大地を移動し、日々の糧をその場で見出していた頃の報酬系が、現代の整然とした都市生活においてもほぼそのまま機能しています。
そのプリミティブな設計の上に、今や物理的な法則さえも超越しかねない計算資源が積み重なろうとしているのです。
この乖離は、単なる道具の進化ではなく、環境の変異と呼ぶべきものです。私たちの回路が書き換わるのを待たず、外部にある処理系が世界を塗り替えていく事象を、順応という一言で片づけることができるのでしょうか。
答えは、残念ながらノーと言えるでしょう。
なぜなら、その問いの前に、私たちは今もなお未解決課題を抱え続けているからです。
数万年前から始まった定住という習慣に対してさえ、未だに生物学的な摩擦を抱え続けているのです。数万年前のものさえ克服されていないのに、ここ30年のものが生物学的に克服できるのでしょうか。いや、できるはずもありません。
1章 未完の定住と設計上の摩擦
人類が狩猟採集から農耕へと移行した際、私たちの身体には多大な負荷がかかりました。定住という制約は、一箇所に留まって資源を管理するという、本来の探索本能とは矛盾する学習を強いたからです。保存という概念を維持するために、私たちは腰を痛め、感染症を受け入れ、将来という実体のない不安を回路に組み込みました。
これは、生物としての最適化ではなく、社会という巨大なシステムの部品として、自身を強引に削り落として適合させた結果です。たとえば、全く別の話ですが、夜行性の動物を光の溢れる檻で飼育した際に、彼らが示す無機質な反復行動を思い出します。私たちのストレスや慢性的な不調も、そうした設計上のエラーが発する信号に過ぎません。
人類が狩猟採集から農耕へと移行した際、私たちの身体には、設計図の書き換えを伴わない急激な負荷がかかりました。定住という制約は、一箇所に留まって特定の資源を管理するという、本来の探索本能や多様な栄養摂取とは矛盾する学習を強いたからです。
その代償は、まず口腔内という入り口から顕在化しました。穀物の摂取頻度が増えたことで、口内のpHバランスは常に酸性へと傾き、野生の時代には稀であった歯の腐食、いわゆる虫歯という構造的な欠陥を抱えることになりました。これは、消化器系の入り口が、高頻度の炭水化物処理という新しい運用に追いついていない証左です。
さらに深刻なのは、エネルギー供給システムにおけるノイズの増大です。精製された穀物の摂取は、血糖値の急激な上昇を招きます。狩猟時代の稀な獲物(糖)を逃さないためのインスリン放出という報酬系が、日常的に供給される炭水化物によってオーバーワークを引き起こし、結果として内分泌系に「誤学習」を強いています。消化のプロセスにおいても、多様な繊維質を求めていた長い腸は、単一の作物を処理し続ける単調な運用にさらされ、免疫系の混乱を招く要因となりました。
全く別の話ですが、季節を無視して温度を一定に保たれた温室の植物が、外敵への耐性を失い、脆弱な組織を形成していく様を思い出します。私たちの身体もまた、農耕という管理システムに適合しようとした結果、生理的なアラートを慢性化させるという、未完の順応のなかにあります。この摩擦が解消されないまま、私たちは情報の海を高速で回遊するための新しい回路を、強制的に接続させられようとしています。
本題は人工知能なので、話がだいぶそれました。
とはいえ、農耕という数万年前当時の最新テクノロジーでさえ、私たちは幾千もの時間をかけてもなお順応しきれていません。その摩擦が解消されないまま、私たちは情報の海を高速で回遊するための新しい回路を、強制的に接続させられようとしています。
2章 外部化される判断と報酬系の誤学習
人工知能の浸透は、人間が数百万年かけて磨き上げてきた、試行錯誤というプロセスを無効化していきます。判断という行為に付随するコストが極限まで下がったとき、私たちの脳は、その空いたリソースをどこへ向ければよいのかを知りません。
本来、報酬系は環境との直接的な摩擦を通じて、何が生存に寄与するかを学習するように設計されていました。しかし、推薦エンジンが示す最適解をなぞるだけの日常は、この学習回路をバイパスします。私たちは、自分で選んだと錯覚しながら、実は計算された報酬の連鎖に従属しているに過ぎないのかもしれません。
どこか、他人の夢を自分の記憶として定着させてしまう実験のようです。情報の摂取効率が上がるほど、私たちが世界と接触する際に生じる手触りは失われていきます。プロセスを捨却し、結果だけを高速で回収し続けることで、私たちの内面にある回路は、次第に自立的な駆動力を失っていきます。
間章 脳というきわめて燃費の悪い器官により人間が得たリターン
人類の設計において、脳という部位はきわめて特異な位置を占めています。体重のわずか2%程度の重量でありながら、全摂取エネルギーの約20%を消費するこの器官は、熱力学的な視点で見れば極めてコストパフォーマンスの悪いハードウェアです。実際、脳を発達させようと進化させた生物もかつてはいたようですが、人間を除いて「割の合わなさ」に直面し、ことごとく淘汰されていきました。
この「高燃費」というリスクを負ってまで、私たちが得たリターンは何だったのでしょうか。それは、環境から受け取る情報の意味を書き換える「シミュレーション能力」です。私たちは目の前の果実をただの物体としてではなく、数日後の空腹を癒やす保存リソースとして認識し、敵対者の動きからその背後にある意図を演算します。この、現実を抽象化して扱うための計算コストこそが、膨大なエネルギー消費の正体です。
しかし、このリターンは同時に、生存に直結しない不安というノイズをもたらしました。まだ起きていない事象を演算し続ける脳は、エネルギーを浪費しながら、身体に対して常に警戒信号を送り続けます。私たちの脳もまた、高度な予測機能という自由を維持するために、常にエネルギー不足という制約に縛られています。
人工知能との接触は、この高コストな判断を外部へ委託する試みとも言えます。私たちが脳という贅沢な器官を使って得てきた利益が外部化されたとき、余ったエネルギーはどこへ向かうのでしょうか。
それは、農耕生活にさえ順応しきれていない私たちの身体を、さらに未知の領域へと追い込んでいくのかもしれません。
3章 計算資源との共生という不自然な形態
人工知能との共生は、自然な延長というより、外付けの臓器を装着する感覚に近いものです。拡張は確かに起きています。しかし、その拡張は生物的な増強とは異なり、汗も痛みも伴いません。疲労の信号を返してこないのです。こちらが限界を越えても、向こうは平然と動き続けます。
遅さ、取りこぼし、迷い、言い淀み。そうした人間の仕様が、改善すべきバグのように見えてきてしまうのです。厄介なのは、その視線が外部からではなく、自分自身の内側から発生する点です。誰かに責められているのではありません。自分で自分を監査し、自分で自分に減点をつけ始めているのです。
あるいは、地図アプリに慣れすぎて、地形の勾配や風向き、遠回りの匂いを身体で覚えなくなることもあります。私たちが手に入れたのは、便利さだけではありません。環境と直接やり取りするための感覚を、少しずつ外部に委ねる能力でもあります。便利さは、能力の延長であると同時に、能力の交代でもあります。
100年前まで紛れもなく才能であった暴力の才能は、現代日本で持って生まれてもなかなか生かすことは難しいのです。
この速度感の前では、ゆっくり適応するという時間軸は成立しません。農耕に順応するために世代を重ねるような悠長さは、もはや許されないのです。私たちは、脳というハードウェアが悲鳴を上げる前に、その悲鳴自体を聞こえにくくする工夫を覚えてしまいました。通知の整理、タスクの細分化、集中の儀式化。どれも有効ではありますが、同時に「無理を可能にする技術」でもあります。
結果として起きているのは、論理回路の接ぎ木です。判断の外骨格をまとい、思考の筋肉を補助し、意思決定の速度だけを高めていきます。しかし、速度は体力を増やしません。処理は速くなっても、消耗が減るわけではありません。むしろ、壊れるまで走れるようになるだけです。
本来、共生とは、双方のリズムが噛み合うことを意味するはずです。しかしこの関係では、片方のリズムだけが固定され、もう片方が無理に追従させられています。そこに自然さはありません。あるのは、計算資源に合わせて人間側が形を変えていくという歪みです。
4章 捨却されるプロセスと残像
高速化された世界において、価値を失いつつあるのは結論そのものではありません。結論に至るまでの時間です。時間は、迷いの居場所であり、試行錯誤の器であり、偶然が入り込む余白でした。しかし今、その余白は真っ先に削られます。最短経路が正義となり、遠回りは怠慢と見なされるようになりつつあります。
人工知能は一足飛びに答えを提示します。私たちは、その答えを採用するだけなら容易です。問題は、その正当性を検証する工程まで、いつの間にか委ね始めている点にあります。検証には時間がかかります。時間はコストです。コストは削減対象になりえます。こうして、確かめるという行為そのものが、徐々に贅沢なものになっていくのです。
迷いや葛藤、逡巡といったものは、成果物には残りにくく、評価にも乗りにくい存在です。しかし本来、それらは人間が世界に触れている痕跡であり、生存に必要な証左でした。簡単に決められないという事実は、対象が複雑であることの証拠でもあります。それにもかかわらず、世界が高速化するにつれ、複雑さは「処理できない側の問題」として押し戻されていきます。理解が追いつかないなら、理解のほうを捨てればいい、という発想が、いつの間にか合理として受け入れられていきます。
古いフィルム映画のノイズや揺らぎを、デジタル修復が丁寧に消していくときの違和感に似ています。ノイズは欠陥ではなく、そこに実在があったという手触りだったはずです。しかし、機能性の観点から見れば、ノイズは不純物にすぎません。除去し、滑らかにし、均質化し、最適化する。その結果、映像は見やすくなります。けれども、何かが軽くなります。その軽さは映像だけでなく、私たちの感覚にも及んでいきます。
純粋な機能性だけが抽出された世界の中で、私たちは自分の生の重みをどこに置けばよいのか分からなくなります。努力の手触り、試行錯誤の泥、うまくいかなさの蓄積。それらを抱えたまま進むことが、次第に不利になっていくからです。
しかし、この環境における順応は、必ずしも進化とは言えません。自己の断片を捨て続ける作業になる可能性があります。手間を減らし、迷いを削り、葛藤を短絡させることで、確かに速度は上がります。けれども、その先に残るのは、主体の輪郭でしょうか。それとも、意思決定を成立させるための最低限の機構だけでしょうか。
何を残し、何を捨てるのか。その判断自体が自動化されたとき、順応すべき主体としての人間は、どこに残るのでしょうか。問いはそこにあります。答えを外部に求めるほど、主体は薄くなります。主体が薄くなるほど、外部の答えが必要になります。その循環の中で、私たちはいつの間にか、最適化された生存だけを残し、手触りのある生活を手放していくのかもしれません。
おわりに
600万年の歴史の中で、我々はかつてない速度での進化を求められています。
とはいえ、進化そのものが「進化するぞ!」でできるものではなく、淘汰されず生き残った者が後天的に進化や適応とされるにすぎません。結果的に生き残れなかった「進化」
は枚挙に暇がありません。
私たちは、自身がどのような報酬系を持ち、どのような制約のもとに生きているかを、改めて認識する間もなく、新しい波に飲み込まれています。農耕という仕組みにさえ馴染めず、今もなお土の匂いや太陽の光を渇望する身体を抱えたまま、冷徹な論理の構築物と同化していきつつあるのです。
この不均衡な状態が、新たな均衡へと向かうのか、あるいは設計図そのものが破綻するまで加速を続けるのか、それを予見することはできません。ただ、便利さという甘い麻酔が効いている間に、私たちはかつて持っていたであろう、不器用で、遅くて、不合理な生命としての感触を、少しずつ手放していることだけは確かです。
次に失われる感覚が何であるか、その予兆を感じることさえ難しくなっています。


