はじめに

私たちは、他者の動作や状態を自分自身の神経系でなぞることで、長い時間をかけて学習という回路を形成してきました。かつて、誰かの手つきや視線の動きを追うことは、自身の脳内に仮想の肉体を構築するのと同義でした。
しかし、その学習のプロセスそのものが情報の外部へと明け渡され、最適化された出力だけが視界を埋め尽くすようになっています。模倣という内的な摩擦が消失していく過程は、まるで自律走行車が普及し、人間の空間把握能力が急速に退化していく感覚に似ています。道を知る必要がなくなり、風景はただの壁紙へと変貌します。
私たちが自らの神経系を使って他者をシミュレートすることをやめたとき、鏡としての自己は、映すべき対象を失ったただの硝子板へと回帰していくのかもしれません。

第1章:同期の演算と、身体の捨却

かつて、模倣は苦痛を伴う同期作業でした。師の身振りを盗み、自身の筋肉に投影し、失敗という誤差を修正し続けることで、ようやく神経細胞の火花が一致します。その過程では、対象との埋まらない距離が常に意識され、その断絶を埋めようとする意志が、固有の文体や身体技法を生んできました。現在、その誤差は計算機によって事前に処理され、私たちは完成された結果のみを享受しています。

ミラーニューロンが発火する隙間もなく、反射は情報の消費へと置き換わりました。動画の倍速再生や、最適化された教則コンテンツによって、私たちは「できている自分」のイメージを安価に購入できますが、そこには身体的な重力が欠落しています。
これは、かつて職人が道具の重みで身体を壊しながら技を覚えた記憶が、単なる数値データとして保存される際の欠落にどこか近いものがあります。捨却されたのは、習得までの「待ち時間」であり、その時間にのみ宿る、対象への深い執着心だったはずです。

第2章:共鳴の回避と、関数の他者

模倣の外部化は、私たちが本来持っていたはずの、他者と自己の境界を曖昧にする能力を失業させました。他者の痛みや喜びを自分のものとして再構築するコストを、報酬系が効率的に回避し始めているのです。かつて、他者の苦境を目の当たりにしたとき、私たちの内側では生理的な違和感が走り、それが他者への配慮や倫理の源泉となっていました。しかし、今や感情はアルゴリズムによってタグ付けされ、適切なタイミングで提供されるコンテンツへと成り下がりました。

摩擦のない模倣は、相手を人間としてではなく、単なる関数として処理することを促します。入力に対して期待される出力が返ってくることだけを良しとし、その背後にある複雑な葛藤や沈黙はノイズとして排除されます。それは、自動改札機を通過する際、私たちがその機構の背後にある設計思想や保守点検の労苦に一切の関心を払わずに、ただ利便性だけを摂取する振る舞いにも似ています。この効率性の追求は、他者の内面というブラックボックスを尊重する作法を、回路から消去していく作業に他なりません。

第3章:生物学的服従と、シミュレーションの死

生物学的な回路が使われなくなるとき、そこには静かな捨却の痕跡が残ります。脳はエネルギー消費を抑えるために、不要なシミュレーションを停止させ、外部の補助輪にその機能を依存させます。学習の放棄は、脳にとっての合理的な生存戦略です。ただでさえ脳は人体の約20%のエネルギーを使用する「非常に燃費の悪い大飯食らい」です。
ただし、それは同時に、共鳴という物理的な裏付けを失うことでもあります。誰かの涙を見て、自身の目頭が熱くなるという回路がショートし、代わりに絵文字という記号が選択されるとき、私たちは自らの身体性を、より確実で動かない外部のアーキテクチャへと服従させています。

この服従は、かつて地図を広げて土地の起伏を想像していた人々が、GPSの音声指示に従うだけで目的地に着くようになった変化と同様です。指示を待つ脳は、自律的に対象を解釈することをやめ、ただ合図に対して反応するだけの受動的な器官へと変質します。私たちは、他者の感情を「理解」しているのではなく、ただ「分類」しているに過ぎない。その分類作業の果てに、かつての生々しい共振の感触は、乾燥した情報の集積へと置き換わっていきます。

第4章:選別される鏡と、ディスプレイの孤独

情報の解像度が上がる一方で、受け手の受容体は摩耗し、より強い刺激、あるいはより手軽な一致を求めるようになります。誤学習された報酬系は、もはや時間をかけた共感ではなく、瞬時の同調を優先します。自分と同じ意見、自分と同じ痛み、自分と同じ属性を持つものだけにミラーニューロンを限定的に駆動させ、それ以外を背景として処理する。これは、街中の看板がすべて自分好みの広告に置き換わった世界で、予期せぬ風景との遭遇が完全に遮断されてしまう感覚に近いのかもしれません。

私たちは、自らの神経系を休ませる代償として、他者の内側へ潜り込むための酸素を失いつつあります。外部化された模倣は、私たちを孤独な観測者へと固定し、他者の人生をただの事例へと矮小化します。摩擦のない社会は快適ですが、そこでは自己を更新するための衝突もまた失われています。私たちが鏡であることをやめ、ただのディスプレイになったとき、そこに映る世界は、果たして本当に私たちが生きている場所と言えるのでしょうか。

おわりに

どれほど精緻な模倣が外部で生成されようとも、私たちが自身のミラーニューロンを駆動させ、他者の輪郭をなぞる際の不器用な摩擦だけが、情報の海に流されない錨となります。かつて焚き火を囲んだ人々が、言葉にならない静寂の中で互いの鼓動を同期させていたように、私たちはシステムが計算し得ない「領域」を死守し続ける必要があります。
心理的な帰属意識や、生物学的な共感能力を残していくのが人の役割になっていくのでしょう。