はじめに
金融庁が運営するEDINET(有価証券報告書等の電子開示システム)は、上場企業の財務・非財務情報を広く公開する社会インフラとして機能してきました。投資家や研究者、規制当局が同じ情報にアクセスできることで、市場の透明性と公平性を支えてきたと言えます。
近年、このEDINETに収録された膨大な報告書をもとに、AI研究者向けに整備されたデータセット「edinet-bench」が登場しました。機械学習モデルの学習・評価を目的に構築されたこのベンチマークは、開示文書を対象とした自然言語処理の標準素材となりつつあります。
問題は、この研究用のデータセットが実務にも影響を及ぼす可能性が高いという点です。AIが開示文書を解析しやすくなれば、作成プロセスの効率化や監査チェックの自動化が進む一方で、経営者の意図や将来を語る部分はどう扱うべきかという問いが浮かび上がります。edinet-benchは単なる技術基盤にとどまらず、開示のあり方そのものを変える契機になるのではないでしょうか。
1. AIと開示業務の親和性
edinet-benchの大きな利点は、過去に提出された有価証券報告書が標準化された形で利用できることです。これによりAIは膨大なテキストを対象に、文言の出現頻度や表現パターンを抽出することができます。たとえば「リスク要因」の章でよく使われる定型句や、「事業等のリスク」で頻出する表現を分析し、自社の開示と比較することが容易になります。研究者にとっては自然言語処理の実験基盤となり、実務担当者にとっては「業界標準と比べて自社の開示は過不足があるのか」という相対評価が可能になります。
定性的に曖昧だった「開示の分かりやすさ」を、AIが数値化しやすくする点は、極めて実務的なメリットと言えます。
また、開示文書では、同じ内容を異なる用語で記載することがしばしばあります。AIはedinet-benchを学習することで、同義語や類似表現を自動的に認識し、比較可能性を高めることができます。これは周辺の透明性を高める効果を持ち、投資家が異なる企業の報告書を横断的に比較する際の負担を大きく軽減します。実務上も、用語の不統一による誤解や突合ミスが減少し、開示の信頼性向上につながるのです。開示文書は数百ページに及ぶことがあり、記載の一貫性や数値の突合確認には膨大な労力が必要です。AIはedinet-benchを学習素材とすることで、典型的な誤記や矛盾パターンを早期に発見できます。たとえば、連結財務諸表の数値と注記に齟齬がある場合や、前年との数値変化が不自然に見える場合を自動で警告することが可能です。こうした機能は「事後監査ログ」として残すこともでき、どの項目をAIがチェックし、どこから人間が判断したのかを明確に示すことで説明責任の設計を補完します。結果として、監査やIRの現場における作業の透明性と効率性が高まります。
実際、監査法人や上場企業の複数社員のチェック体制をすり抜け、毎年数百の訂正報告書が発生していることを勘案すると、特に有価証券報告書については作成が煩雑すぎて、誤りを誘発しやすくなっているといえるでしょう。
(そんな中、さらに早期化したいようですが。)
さらなる利点もあります。
有価証券報告書には大量の数値データが含まれますが、その形式は表組みや脚注など複雑で、人間が目視で処理すると時間と労力がかかります。AIはedinet-benchを利用することで、財務諸表の項目を機械的に切り出し、比較可能な形で抽出することができます。たとえば「売上高」「営業利益」「研究開発費」といった項目を自動で整列させ、競合企業との横比較を一瞬で提示できるようになります。従来であればアナリストや経理担当者が手作業で行っていた作業が自動化されることで、業務棚卸しの観点でも負担が大幅に軽減され、ヒューマンエラーの余地も少なくなります。
従来、XBRLを使ってできないこともなかったのですが、文字通りせいぜい「技術的には可能」にすぎませんでした。
実際はやりたくないもしくは、手のほうが早いというやつですね。
2. 意図を文章に落とし込む難しさ
AIは言葉や数値を整然と処理することに長けていますが、その背後にある経営者の意図までは読み取ることができません。たとえば、事業リスクの記載において「将来の不確実性に備えるため」と表現されていたとしても、それが単なる形式的な補足なのか、あるいは経営陣が実際に危機感を持っているのかは、文脈や表現の強弱を理解しないと分かりません。AIは表現の頻度や傾向を抽出することはできますが、「なぜその言葉を選んだのか」「どの程度の覚悟を持っているのか」といった背景を解釈することはできないのです。開示が単なる法定遵守にとどまるのか、それとも投資家との真の対話を意図しているのかを見極める部分は、依然として人間の領域に残ります。
また、リスク記載についても同様です。有価証券報告書のリスク要因の記載は、多くの場合、確率や影響度が数値化されていません。「為替変動の影響を受ける可能性があります」といった表現は一般的ですが、それが軽微なリスクなのか重大なリスクなのかは、読み手の解釈に委ねられています。AIはこうした表現を言葉通りにリスクとして分類することはできますが、曖昧な表現の中身を正確に評価することは困難です。むしろAIが単純に「リスク要因の件数」をカウントすることで、実態以上にリスクが強調されてしまう可能性すらあります。つまり、リスク要因の曖昧さを適切に読み解くには、人間が事業環境や業界動向を踏まえて解釈する必要があります。
加えて、近年の有価証券報告書では、非財務情報が重視されています。具体的には、数値では表せない「経営理念」「企業文化」「人材戦略」といった情報が多く含まれています。これらは投資家にとって重要な判断材料でありながら、AIが構造的に理解するのは難しい領域です。例えば「従業員の主体性を尊重する文化を大切にする」といった表現は、ポジティブに見えますが、実態が伴っているかどうかは数値データだけでは裏付けできません。AIが過去の開示との類似性を指摘することはできても、その言葉が本当に企業独自の価値を反映しているのか、単なる借り物の表現なのかを見極めるのは人間の役割です。
ここまでもAIが苦手な分野が目白押しですが、まだ最も苦手な分野が残っています。
開示の中でも特にAIが苦手とするのは、将来予測や経営のストーリー性を伴う部分です。中期経営計画やESG戦略の記載は、単に数値を並べるだけではなく、「なぜその方向を選ぶのか」「将来のリスクをどう乗り越えるのか」といった物語的な要素を含んでいます。AIは過去のデータに基づいて「似た表現」を見つけ出すことはできますが、未来のシナリオを主体的に構築することはできません。むしろ、過去データに依存するAIにとって、未知のリスクや新規事業への挑戦は「前例がない」として評価不能になる可能性があります。開示に求められるのは、数値の整合性だけでなく、未来への納得感を投資家に与える力であり、これは依然として人間の判断が不可欠です。
3. AIとの分業
AIは膨大な開示データを整理し、形式やパターンの整合性をチェックする役割に向いています。edinet-benchのような標準化データセットを活用すれば、過去の事例をもとに定型的な誤記や不一致を効率的に検出することが可能です。また、同業他社との比較や統計的な傾向抽出といった定量作業は、AIが人間よりも正確かつ迅速に処理できます。AIアウトプット比率を高められる領域は、こうした繰り返し性の高いチェック業務や自動集計であり、これを人間が続ける必要性はほとんどなくなっていきます。
一方で、人間が必ず関与しなければならないのは、開示文書に込められた意図や戦略を設計する部分です。経営者がどのように将来のシナリオを描いているのか、リスクをどう位置づけているのか、あるいは投資家に何を伝えたいのかは、AIが単独で判断できません。ここは説明責任の設計そのものであり、責任を持って発信する主体はあくまで企業とその経営陣です。AIが示した傾向を参考にしつつ、文脈を踏まえて意味を与えるのは人間の役割です。
AIと人間が分担するだけではなく、協働の仕組みをどう設計するかも重要です。AIが生成したチェック結果や比較指標をそのまま使うのではなく、「どの部分をAIが提示し、どの部分を人間が修正したか」を明示できる形にすることが望まれます。例えば、開示文書の草案にAIが自動生成した部分を色分け表示し、最終的に人間が手を入れた箇所を事後監査ログとして残すといった方法です。これにより周辺の透明性が確保され、後から見ても「AIに任せた部分と人間が責任を持った部分」の境界が明らかになります。
AIが開示作業の定型部分を代替していくことで、実務担当者に求められるスキルは変化します。単純な誤記修正や整合性チェックはAIが行うため、人間は「ストーリーをどう描くか」「投資家にどう伝えるか」といった高度な判断力を磨く必要があります。これはキャリア自律の観点でも重要で、IRや経理の担当者は単なる作業者から「投資家対話の設計者」へと役割をシフトさせていくことが求められます。AIに置き換えられるのではなく、AIをうまく活用して人間ならではの価値を発揮する。これが持続的に信頼を獲得するための現実解です。
おわりに ─ 開示の未来に向けた境界線
edinet-benchは、研究者にとっては実験基盤であると同時に、実務担当者にとっても開示の効率化と透明性向上を支える道具になりつつあります。AIがパターン抽出や整合性チェックを担えば、開示作業の精度と速度は大きく改善されます。一方で、経営者の意図や将来の戦略をどう伝えるかといった部分は、依然として人間にしか担えない領域です。
重要なのは「AIに任せられる部分をどう切り出し、人間の責任をどこに残すか」という境界線を丁寧に設計することです。AIアウトプット比率を管理し、事後監査ログを残すことで周辺の透明性を確保すれば、AIと人間の協働は持続可能な形で制度に組み込まれていきます。そして、実務担当者は単なる作業者から、開示ストーリーを設計する役割へとキャリア自律を果たす必要があります。
edinet-benchが示しているのは、開示が完全に自動化される未来ではありません。むしろ「気づきはAI、解釈と責任は人間」という分業が強化される未来です。
世の中の様々な業務で、簡単で単純な部分はAIに置き換えられ、人間はより複雑なものに取り組むようになると思われますが、その最たるものではないでしょうか。
とはいえ、現状の開示ルールの煩雑さと付随して発生するミスと監査法人含む実務負担を考慮すると、ルールベースの部分はAIで統御したほうが楽な気はしますね。