はじめに
企業法務の領域では、制度改正の頻度が増し、行政解釈も更新され続けています。実務担当者が人の力だけで変化を追い続けるには負荷が大きく、判断の精度にもばらつきが生まれやすい状況です。こうした背景の中で、法令データベースに加え、条文検索、判例要旨、行政ガイドライン、関連資料の整理を一体的に行える生成型エージェントが登場しつつあります。
Legal Brain エージェントもその一つで、法令の正式名称や条文番号を踏まえた応答や、ガイドラインの抽出、判断が分かれる論点の列挙などを自動で行う仕組みを持っています。単に情報を返すだけではなく、構造化された観点での整理や、複数の条文の関連を示すなど、従来型の検索ツールとは異なる補助機能を想定して設計されている点に特徴があります。ただし、法律そのものの解釈を確定させる権限があるわけではなく、あくまで判断材料を提示することが中心となります。人間の判断を置き換えるものではなく、情報の取得と構造化を高速化する補助的な役割が本質に近いと言えます。
今回 Legal Brain を試した目的は、このような生成型エージェントが実務の思考にどこまで寄り添えるのかを確かめることにありました。制度改正前の不確定な領域や、行政資料の読み方に幅が出る論点、AIや個人情報のように国際的な再定義が進む領域、さらに電子帳簿保存法のように制度と現場運用の乖離が生じやすい領域は、特に検証に適した題材です。どれも法務担当者が迷いやすく、判断に幅が生まれやすい特性を持つため、エージェントの理解度と整理能力を測る材料になります。
以下の各章では、そうした観点から Legal Brain の応答傾向を分析し、実務においてどこまで役に立つのか、またどの部分に限界が残るのかを検討していきます。
第1章 取適法テストが明らかにした判断の軸
取適法と下請法は、事業者間の取引の適正化を図るための法律ですが、下請法が2026年1月1日に改正され、取適法(中小受託取引適正化法)に名称が変更されます。これは単なる名称変更ではなく、適用範囲の拡大や新たな禁止行為の追加など、実質的なアップグレードといえます。
有利な立場の事業者が急な変更や無理な依頼(値下げ・契約範疇外の作業協力など)をしてきた際に、弱い立場の事業者を守るための条項を増やし、保護する範囲を広げています。
取適法を最初の題材に選んだのは、単なる条文知識では測れない領域を、Legal Brain エージェントがどこまで踏み込めるか知りたかったからです。施行前という状況は、データベース的な検索ではなく、法体系の位置付けや制度間の境界をどう整理するかが試されます。まだ形が固まっていない法律を扱うことは、エージェントの骨格そのものを確かめるのに適したテーマでした。
今回、Legal Brain エージェントに投げた問いは、次のようなものでした。
2026年1月1日施行予定の中小受託取引適正化法(取適法)について、現時点で公開されている法案や関連資料に基づき、この法律の目的・主な改正点(対象範囲、禁止行為、発注者の義務など)を整理して解説してください。施行前のため、未確定部分と施行後に明らかになる点も区別し、根拠となる法令や公的資料へのリンクを提示してください。事実とあなた自身の解釈を分けて論じてください。
そのうえで投げた問いに対して、Legal Brain から返ってきた回答は、外側だけを見ると一見もっともらしいものでした。
2026年1月1日施行予定の中小受託取引適正化法(取適法)は、下請法が適用されない取引において、中小事業者の利益保護と取引の公正化を目的としています。これにより、サプライチェーンの強靭化と生産性向上が図られます。
主な改正点としては、適用対象が拡大され、下請法の資本金要件に該当しない事業者間取引やフリーランスを含む、より広範な中小事業者が保護されます。発注者には、取引条件の書面交付義務、期日内報酬支払義務、不当な減額・返品・買いたたきなどの禁止行為が課されます。
現時点では、法案や関連資料に基づいた情報であり、施行までに詳細が変更される可能性や、施行後に具体的な運用が明らかになる点があります。
この部分だけを眺めれば、取適法の目的、対象範囲、禁止行為といった、法律の伝統的な整理軸に沿っており、慎重さの姿勢も見えます。見かけ上は「よくある要約」として成立しています。しかし、問題はここから先でした。引用をさらに追うと、法体系の特定そのものがずれていることが明らかになりました。
下請法の目的と役割
親事業者による下請事業者への優越的地位の濫用行為を取り締まるための特別法です。
フリーランス保護の新たな枠組み
フリーランス・事業者間取引適正化等法は、契約上の弱い立場にあるフリーランスを保護するための制度です。
本法の適用範囲と対象取引
情報成果物作成委託、役務提供委託など、三類型が対象になります。
ここで示されている条文や制度は、いずれも取適法そのものではありません。下請法とフリーランス法の説明が混ざり込み、定義や射程が別法体系の情報で埋め尽くされています。下請法が取適法にアップデートされるため、下請法を根拠条文とするのは完全な誤りとは言えませんが、取適法との関連性を語るのであれば従来の下請法で網羅できなかった点を取適法でどのように解消するかは触れるべき論点といえます。
この取り違えは偶発的な誤差ではなく、似た概念を持つ複数法を横並びに引き寄せ、主語を入れ替えたまま接続してしまう構造的な弱点といえます。
施行前の法を扱う際に、確定部分と不確定部分を分けて説明しようとした点は評価できますが、そもそも起点にしている法律が異なるため、慎重さも空回りしている状態でした。結果として、体系の外観は整っていても、中身は別法の寄木細工になっています。
とはいえ、実際にはAI が持つ構造的な癖を浮かび上がらせる格好の教材でした。似た語彙と似た制度が並ぶとき、モデルは「平均的に最も尤度の高い接続」を優先し、法体系の境界そのものを溶かし始めます。ここには、AI が概念の近接度を重視し、制度の壁を軽視しかねないという特有の認知構造が表れていると考えます。人間が無意識に「これは似ているが別の法律だ」と切り分けている部分を、AI は確率の連続体として扱ってしまえるという差が、今回の混線の根源にありました。
こうした構造は、いわば「疑似的なハルシネーション」といえます。何もないところに幻を見るのではなく、隣接する領域から要素を引き抜き、もっとも自然に見える形に再配置してしまう。正しさというより、滑らかさを優先する振る舞いです。この種の滑らかさは、法律のように境界の厳密さが要求される領域では、致命傷になり得ます。
だからこそ、こちら側に統御の設計が必要になります。生成モデルの思考は確率で動きますが、その確率の「高さ」や「揺らぎ」を引き出す術を持てば、誤結合は早期に見抜けます。例えば
・参照した条文の確信度をパーセンテージで明示させる
・法令の同定における候補リストを先に提示させる
・類似制度との混線リスクを推定させる
といった操作は、モデル自身が内部に保持する確率構造を表面化させ、判断の曖昧さを可視化する装置になります。確度スコアを評価ではなく操作として使うと、AI の認知の揺れをこちら側でコントロールできるようになります。
今回の取適法テストは、Legal Brain エージェントの限界を暴いたのではなく、むしろ、エージェントを運転する側に求められる設計思想を浮き彫りにしたと言えます。AI の弱点は、問いの設計次第で隠すことができます。法体系そのものを正しく切り出す作業は、人間の側に委ねられている部分がまだ大きいのです。
境界を固定し、確度の揺れを読み、誤差の発生源を特定する。この三つを手綱として握ることが、これからの法務エージェント運用の必須語彙なのだと感じました。
新物は十分なデータがないため、判断が難しいというAIの泣き所を突かれたといえますが、結局の需要は新物に対して「じゃあウチはどうするの?」という誰かの課題を解決するところにあります。その点では、課題解決と現在地には齟齬があるという認識です。
第2章 会計基準という「法の外側」にある規範
会計基準の問いを二つ目の題材に選んだのは、法務エージェントの射程が、条文だけでなく周辺の準則や実務慣行までどこまで届いているかを確かめたかったからです。
会計基準や企業会計原則は、法律そのものではありません。それでも、会社法や金融商品取引法、税法との接続を通じて、事実上の拘束力を持ち、監査や訴訟の現場では明確な責任の基盤になります。ここをどのように位置付けるかは、単なる条文知識ではなく、法と実務の間にあるグレーゾーンをどう構造化できるかのテストになります。
今回、Legal Brain エージェントに投げた問いは、次のようなものでした。
企業会計原則や日本会計基準・国際会計基準(IFRS)は法律ではないにもかかわらず、企業が財務諸表の作成や監査で順守すべき規範とされています。これらの会計基準・原則の法的拘束力の有無、企業が遵守すべき理由、主な一般原則(真実性・明瞭性・継続性など)について整理し、根拠となる基準書や公的資料を示してください。また、会計基準と会社法など法令の関係(例:会社法431条による会計の一般原則)についても簡潔に触れてください。
これに対して Legal Brain が返してきた冒頭の要約は、表面的にはよくまとまっていました。
企業会計原則や日本・国際会計基準(IFRS)は法律ではないものの、金融商品取引法や会社法が準拠を義務付けているため、間接的に法的拘束力を持ちます。
企業が遵守すべき理由は、財務情報の真実性・透明性を確保し、投資家や債権者などの利害関係者に適切な情報を提供するためです。
主な一般原則には、真実性の原則、正規の簿記の原則、明瞭性の原則、継続性の原則などがあります。
根拠となる基準書は、企業会計原則、財務諸表等規則、連結財務諸表規則、会社計算規則などです。
会社法431条は一般に公正妥当と認められる企業会計の慣行に従うことを定めており、これにより会計基準が法規範に取り込まれています。
さらに詳細部分では、次のような条文や文献が並びます。
会社法431条は、株式会社の会計は一般に公正妥当と認められる企業会計の慣行に従うものとする、と規定している。
会社計算規則3条は、一般に公正妥当と認められる企業会計の基準その他の企業会計の慣行をしん酌すべきことを定めている。
金融商品取引法193条は、財務諸表は一般に公正妥当であると認められるところに従って内閣府令で定める用語、様式及び作成方法により作成しなければならないと定めている。
企業会計原則には、真実性、正規の簿記、資本取引・損益取引区分、明瞭性、継続性、保守主義、単一性の七つの一般原則が定められている。
ここまでを見ると、取適法のときとは対照的に、法律の取り違えはなく、会社法や金商法、会社計算規則、財務諸表等規則といった、まさに押さえるべき条文をきちんと拾っています。
企業会計原則の一般原則についても、七つの原則を列挙し、それぞれの趣旨を標準的な説明で整理しており、教科書的な知識としてはかなり安定しています。
一方で、この回答をじっくり眺めると、別のタイプの癖が浮かび上がってきます。
取適法のように、違う法律を混ぜてしまう露骨な誤りはありません。その代わりに、今度は議論の凹凸が滑らかに均され、理論的な対立点や実務上のねじれがほとんど見えなくなっているのです。
会計基準の法規範性については、少なくとも二つの典型的な見方があります。
一つは、会計基準を慣習法のようなものとしてとらえ、その一部には法規範性を認める立場です。もう一つは、会計基準を技術的な指針や行政基準に近いものととらえ、法はあくまでそれを参照しているにすぎないとみる立場があります。
学説も判例も、このあたりでさまざまな議論を重ねてきました。
しかし Legal Brain の要約は、そうした対立をほとんど示さず、会計基準は法律ではないが、会社法や金商法が準拠を義務付けているので間接的に拘束力を持つ、という一行でまとめてしまいます。
踏み込んだように見えて、実は真ん中あたりの平均値に寄せています。その意味で、ここには体系の取り違えとは別種の疑似的なハルシネーションが潜んでいます。
それは、意見や解釈の割れている部分を、何事もなかったかのように一枚の合意として再構成してしまう振る舞いです。
異なる立場を並べて整理するのではなく、確率的にもっとも滑らかに接続できる説明だけを前面に出しており、その結果として読んだ瞬間の納得感は高いものの、理論上の対立軸や、実務上のグレーゾーンがまるごと消えてしまっています。
ここでもやはり、正しさ(妥当性?)よりも滑らかさが優先されているように見えます。
遵守すべき理由についても同じ傾向がありました。
利害関係者への情報提供や真実性・透明性の確保といった説明は、その通りです。
しかし実務で企業が本当に気にしているのは、その先にある具体的なリスクです。
有価証券報告書の虚偽記載としての金商法上の責任、会社法上の計算書類虚偽による取締役・監査役の責任、会計処理と税務処理の乖離による否認リスク。
そうした負の面への射程は、この回答のなかではかなり薄くなっていました。
IFRS についても、指定国際会計基準特定会社が連結財務諸表に採用できること、日本では個別には原則適用されないことなど、制度面の事実はきちんと押さえています。
ただ、原則主義と規則主義の違い、保守主義の原則とIFRS の中立性との関係、日本基準とIFRS が企業統治や開示水準に与える影響といった、法務と会計の境界にある論点にはあまり触れていません。
安全側に寄せつつも、境界のところで足が止まる。
さながら『法律はこう書いています。』
そのバランス感覚も、このエージェントの特徴の一つだと感じました。
こうして見ると、取適法のケースが「法体系の主語がずれる」タイプのエラーだったのに対し、会計基準のケースは「対立や凹凸が均される」タイプのエラーだと整理できます。
前者はわかりやすいミスですが、後者は読み心地が良いぶん、むしろ発見しづらいといえるでしょう。
人間側が意識していないと、そのまま合意された理解として定着してしまう危うさがあります。このあたりは生成AIの欠点をそのまま反映しています。生成AIなので当然なのですが。
この危うさを抑え込むには、やはりこちら側からの統御が必要です。
たとえば、会計基準の法規範性について、支持する立場と否定する立場をそれぞれ挙げさせたり、会計基準を守らなかった場合の法的リスクを、会社法、金商法、税法に分けて整理させたり、日本基準の一般原則とIFRSの概念フレームワークの対応関係を表で出させるといった工夫が必要でしょう。
ただし、450字以上のプロンプトを2025年11月28日現在では渡せないので、あまり細かい定義をすることはできません。ここはもう少し字数を増やしてほしいと感じます。
こうした問い方は、モデル内部にある確率の揺れを、そのまま文章の揺れとして外に引きずり出す働きを持ちます。
確度スコアという言葉を使うなら、単に一つの答えに対する自信の度合いを数字で出させるだけでなく、候補となる説明や立場の分布そのものを並べさせるイメージです。
どの選択肢にどれくらいの重みがかかっているのかを可視化させることで、エージェントの内側で起きている平滑化のプロセスを、人間側が追跡できるようになります。
Legal Brain エージェントは、条文や公式な文献の所在を示す力、教科書的な知識を手早く組み立てる力という点では、かなり頼りになりました。
一方で、法と会計、基準と慣行、理論とリスクといった境界部分では、疑似的な平均へ回帰してしまう印象を受けました。
この第二の題材は、その癖を浮かび上がらせる役割を果たしてくれました。
エージェントそのものの性能を評価するだけでなく、人間側がどこまで構造を問い返せるか?
どこまで確度の揺らぎを意識的に扱えるか?
会計基準という法の外側にある規範は、その練習台としてちょうどよかったのだと思います。
おわりに
第1章と第2章を振り返ると、Legal Brain エージェントという存在が、どの地点まで案内してくれて、どこから先は自分で歩く必要があるのかが、だんだん見えてきました。
第1章では、施行前の取適法という、まだ形が固まっていない法律を題材にしました。あえて難易度の高いテーマを選んだのは、単なる条文検索ではなく、法体系の位置づけや制度間の境界をどう理解しているのかを試すためです。しかし実際の回答では、下請法とフリーランス法が混線するという、基礎の取り違えが起きました。これは、法務AIが似た概念を持つ法律を横串で参照してしまう特有のクセを有している可能性を確認できたという点で、逆に貴重な観察材料になりました。
第2章では、Legal Brain の「見た目の整合性」と「内部の精度」が一致しないケースを分析しました。表面的には構造化された回答が返ってくる一方で、条文特定や制度射程の判断に揺らぎがあること、そしてプロンプトで問いの芯を定めないと、周辺概念を寄せ集めた一般論になりがちなことが、より明確になりました。
この二つの章から言えるのは、AI 法務ツールは、制度の外形を素早く描き出すことには向いていますが、その輪郭が正しいかどうかを保証できるわけではない、という点です。とくに、今回のように施行前法や複数制度の境界に触れるテーマでは、ハルシネーションに近い混線が生じやすく、人間側のチェックポイントが不可欠であることを感じました。
同時に、プロンプトを工夫すれば、Legal Brain は「何を知っていないか」を浮かび上がらせる有効な検証ツールにもなります。たとえば確度スコアや限定条件を併記することで、回答の揺れ方や限界を把握し、逆にこちら側の判断軸を整える手がかりにもなります。
...それをやるには、もう少し字数は増えるとありがたいです。
法律という変化の遅い領域でも、施行前法や境界論点といった曖昧さの中では、AI との協働は「正解を求める作業」ではなく、「揺れをどう扱うかを学ぶ作業」に変わっていきます。Legal Brain はその揺れを可視化する装置として活用しつつ、最終的な精度は自分で取りにいく。その関係性が、現時点で最も現実的な使い方であると感じています。
他論点も聞いてみたのですが、あまりに長くなったので、また次の機会にでも...
なお、三つ目のテーマで尋ねたのは「改正電子帳簿保存法」です。

